日本ユーラシア協会 女性委員会

このブログは、最近日本でもやっと光が当てられ始めたジェンダー問題について、私たち女性委員会のメンバーが、資料を調べたり、海外の女性の意見を聞いたり、いろいろ学ぶ中で、もっと多くの女性たちとつながって、共に考え、共に前に進んでいきたいという思いの中から生まれたものです。  私どもの声明文「ジェンダー平等の実現を目指して」はカテゴリー「ジェンダー平等」をクリックすれば読んでいただけます。  また、社会問題だけでなく、広く興味をもっていただけそうな話題も提供していきたいと思っています。

カテゴリ: ウラジオ今昔物語

その2 サハリン サハリン(樺太)は日本領、ロシア領と歴史に翻弄された国境の地ですが、明治の頃から渡航した日本人はいました。100年前に私の祖父と親交のあった大河内門三郎さん(1856-1943)もそのひとりで、近年お孫さんから話を聴き、史料もいただきました。門三郎 ...

  ウラジオは今も昔も極東ロシアの玄関口で、人々はここを通って極東の各地へ行きました。私の家族を通して知る限りで他の地域のことも、ちょっと見てみたいと思います。堀江商店カムチャッカ出張所その1、カムチャツカ 私の父は1919年秋から1922年春までカムチャツカの ...

昔、ウラジオストクで日本人たちが活躍していたことは、すでにこの項でお話しをしてきました。その資料などを豊富に掲載した拙著「遥かなる浦潮」が電子書籍になりました。紙の本は絶版になっていますので、この電子版で若い方々にも気軽に読んでいただければ嬉しいです。 ...

 私がウラジオの日本人史に興味をもったきっかけは、祖父、祖母、父が明治・大正時代に現地に長く住み、日記、手紙、写真等の史料を遺したことでした。祖父は貿易業の傍ら日本人社会で種々の役職を務めて草創期から終焉までの生活を見つめ、激動の時代の記録を遺しました。 ...

 筆者の私事で恐縮ですが、私がウラジオの日本人史に興味をもったきっかけは、祖父、祖母、父が明治・大正時代に現地に長く住み、日記、手紙、写真等の史料を遺したことでした。祖父は貿易業の傍ら日本人社会で種々の役職をもって草創期から終焉までの生活を見つめ、激動の ...

1905年に日露戦争が終結してからロシア革命までは、ウラジオの日本社会が最も発展し、都市の形やロシアの公的機関との窓口も整った時期でした。日本領事館、日本小学校、日本居留民会、邦字紙『浦潮日報』等々ができ、その建物は改修、復元されて今も観光スポットとして注目 ...

ウラジオはソ連時代は閉鎖された軍港都市だったし、シベリアは寒い、暗い、日本人抑留者が苦労したことなどでマイナスイメージを持っていた日本人が多かったのではないでしょうか。いまウラジオは学生が多い若者の街、日本のアニメやコスプレ大好き、伝統的な日本文化にも今 ...

極東ロシアの玄関口、ウラジオストクってどんな街かご存じですか。風光明媚な港街、可愛いお店や各国料理のレストランが並ぶ近代的な観光地、今や女子旅のトレンドなんです。1991年ソ連崩壊まではそうではなかった、でももっと昔日本の明治・大正時代には6000人近い日本人が ...

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